Share

第1011話

Author: 宮サトリ
当時、瑛介の傷は深刻だった。

弥生は弘次が治療を拒むのではないかと怯えていた。もし治療が遅れれば、彼は目を覚ますことなく命を落とすか、重い後遺症を残すかもしれない。

だからこそ、彼女は弘次と衝突しながらも、結局瑛介を解放させることに成功したのだ。

そして、自分が弘次と交わした約束を思い出した。

瑛介を逃がす代わりに、自分が残ると決めたからこそ、弘次は彼を手放したのだ。

......でも、自分はまだ弘次に何も伝えられていない。

彼を待たせたままだ。

あの時、弥生は直感的に「彼は別れを告げようとしているのでは」と思った。確証はなかったが。

そう思って、彼女は問いかけた。

「......私、どれくらい眠っていたの?」

「どうした?」

「自分がどれほど離れていたのか、知りたいの」

「一日だ」

弥生は唇をかすかに噛んだ。

たった一日か。その間に何が起きてしまったのか。

彼女が沈み込むのを見て、瑛介は理由を掴めずとも、その感情が良いものではないことだけは察した。

「......どうした?」

「何でもないわ」

そう口にしても、思考の渦からは抜け出せない。

瑛介は彼女の様子に眉を寄せ、逆に尋ね返した。

「どうして記憶を失った?覚えているか?」

突きつけられた問いに、弥生は呆然とした。

そういえば、目を覚めたから、一度もなぜ記憶を失ったのかを考えたことがなかった。

「......よく分からない。ただ、目を覚ましたとき、頭を怪我していたみたい」

その言葉に、瑛介は即座に弥生の額を注視した。

傷痕が見当たらず、今度は後頭部を確かめた。

「後ろを打ったのか?」

「......多分そう」

彼はしばし黙り込み、それから低く言った。

「後で必ず検査を受けろ」

弥生は彼の言葉を受け止めながらも、ふと問い返した。

「検査はいいけど......あなたのほうは?」

「......何?」

「私の記憶が確かなら、あの場所に行ったのは取引のためよ。私が残る代わりに、あなたを逃がすという約束で」

瑛介は険しく眉をひそめた。

あの時、心を許さなければ、こんなことにはならなかった。

傷を負って昏睡に陥り、彼女を危険に晒してしまった。

男として、彼女を守れなかった。

「友作から聞いたわ。あなたが去ったとき、重傷で昏睡していたって」

弥生の声
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第1013話

    弘次のことを心の中でさんざん罵ったあと、健司は短く言い捨てた。「......はい、医者を呼んできます」そう言って部屋を出ていった。弥生はそのまま彼が行ってしまったと思ったが、すぐに健司は戻ってきた。ただし今回は部屋に入らず、入口に立ったまま瑛介を呼んだ。瑛介が振り返ると、彼は口を開きかけては閉じるような表情をしていた。瑛介は仕方なく弥生に向き直り、声をかけた。「......すぐ戻る」布団に潜っていた弥生は、小さく頷いた。廊下に出ると、健司は瑛介に「もっと離れた場所で話そう」と手振りで示した。その仕草に瑛介は眉をひそめた。「言いたいことがあるならここで言え。そんなに距離を取る必要があるのか?」健司は後ろを振り返り、声を落とした。「......やっぱり少し離れましょう。ここで話すと、霧島さんに聞かれてしまうかもしれません」苛立ちが顔に出た。やっと彼女を取り戻したのに、今さら自分に距離を取れというのか。もしその隙にまた何か起きたら、誰が責任を取る?瑛介の表情が冷たくなった。「聞かせたくないなら、声を落とせ。それでも無理なら文字で書け」健司はそれ以上逆らえず、声を潜めて言った。「......もうずっと霧島さんに付きっきりですが、ご自分の傷の手当てはどうするんです?医者はずっと控えていますよ。傷口が悪化して炎症でも起きたら大事です」瑛介は一瞬、虚を突かれたように黙った。自分の怪我など、すっかり頭から抜けていた。しばしの沈黙のあと、低く答えた。「分かってる。あとで行く」健司は納得しないようだ。「その言葉は何度も聞きました。でも一度も行ってません。先生は『これ以上放置するなら、自分から行く』とまで言ってます。ですから、霧島さんの目の前で手当を受けるか、それともご自身で先生のところに行くか。どちらかを選んでください」数秒の沈黙ののち、瑛介は短く言った。「......彼女の主治医を、ここへ呼べ」健司はその意図を理解し、頷いて去っていった。瑛介が再び部屋に戻ると、弥生は布団をかぶったまま、顔だけを出していた。その姿に、彼は思わず笑みを浮かべた。近寄って彼女を起こし上がらせると、弥生が問いかけた。「さっき二人で内緒話してたでしょ?......私に隠してる

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第1012話

    「......体はもう大丈夫なの?」弥生は彼をまっすぐ見つめた。「目を覚ましたばかりで、こんな危険なことをして。医者に許可は取ったの?」自分を気遣う言葉に、瑛介の唇がふっと上がった。「もちろん医者に相談した。許可を得てから出てきたんだ」弥生は一瞬沈黙し、やがて呆れたように顔をしかめた。「......私を馬鹿にしているの?ごまかして、面白い?」その一言に、瑛介の表情がたちまち変わった。「怒ったのか?」弥生は顔をそらした。「すまない。ただ心配させたくなかったんだ」瑛介は必死に取り繕おうとした。まるで「許してくれなければ、今すぐ切腹する」と言わんばかりの様子に、弥生は思わず心が揺れた。彼が無茶をしたのは事実だ。でも、それは彼女を助けるためだった。それを思えば、怒り続ける資格など自分にはない。弥生はゆっくりと彼を見返した。「......分かってるでしょう?私が怒るとしたら、それは全部、あなたのことを心配しているからよ」「分かってる」瑛介の瞳が柔らかくなり、すぐ傍へ身を寄せた。自然に腕を回し、彼女を引き寄せた。弥生の胸がどくりと跳ねるが、不思議と抗う気持ちはなく、半ば委ねるようにその胸に身を預けた。「全部分かってる。君が怒っても、それは僕を気にかけているからだ」彼の匂いに包まれ、弥生の手は無意識に動き、彼の肩にかかり、そのまま首に回った。その仕草に、瑛介は胸を揺さぶられ、顔を伏せ、唇を寄せようとした。ちょうどその時、廊下から足音が近づいてきた。弥生の身体がびくりと硬直し、慌てて腕を放し、瑛介を押しのけて布団へ潜り込んだ。動きを半ばで止められた瑛介は、そこで固まってしまった。「......霧島さんは、目を覚まされたんですか?」健司が入ってくると、彼は目にした光景に一瞬ぽかんとした。布団に潜っていた弥生が小さく咳払いをし、手をそっと上げた。「......私のこと?」「目を覚まされたんですね!」健司の顔がぱっと明るくなった。「よかった......いつ目を覚まされるのか心配でした。どこか具合の悪いところはありませんか?医者も、何か不調があればすぐに検査するようにと言っていました」「大丈夫。特に何もないわ」そのやり取りを聞きながら、瑛介が口を開いた。「

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第1011話

    当時、瑛介の傷は深刻だった。弥生は弘次が治療を拒むのではないかと怯えていた。もし治療が遅れれば、彼は目を覚ますことなく命を落とすか、重い後遺症を残すかもしれない。だからこそ、彼女は弘次と衝突しながらも、結局瑛介を解放させることに成功したのだ。そして、自分が弘次と交わした約束を思い出した。瑛介を逃がす代わりに、自分が残ると決めたからこそ、弘次は彼を手放したのだ。......でも、自分はまだ弘次に何も伝えられていない。彼を待たせたままだ。あの時、弥生は直感的に「彼は別れを告げようとしているのでは」と思った。確証はなかったが。そう思って、彼女は問いかけた。「......私、どれくらい眠っていたの?」「どうした?」「自分がどれほど離れていたのか、知りたいの」「一日だ」弥生は唇をかすかに噛んだ。たった一日か。その間に何が起きてしまったのか。彼女が沈み込むのを見て、瑛介は理由を掴めずとも、その感情が良いものではないことだけは察した。「......どうした?」「何でもないわ」そう口にしても、思考の渦からは抜け出せない。瑛介は彼女の様子に眉を寄せ、逆に尋ね返した。「どうして記憶を失った?覚えているか?」突きつけられた問いに、弥生は呆然とした。そういえば、目を覚めたから、一度もなぜ記憶を失ったのかを考えたことがなかった。「......よく分からない。ただ、目を覚ましたとき、頭を怪我していたみたい」その言葉に、瑛介は即座に弥生の額を注視した。傷痕が見当たらず、今度は後頭部を確かめた。「後ろを打ったのか?」「......多分そう」彼はしばし黙り込み、それから低く言った。「後で必ず検査を受けろ」弥生は彼の言葉を受け止めながらも、ふと問い返した。「検査はいいけど......あなたのほうは?」「......何?」「私の記憶が確かなら、あの場所に行ったのは取引のためよ。私が残る代わりに、あなたを逃がすという約束で」瑛介は険しく眉をひそめた。あの時、心を許さなければ、こんなことにはならなかった。傷を負って昏睡に陥り、彼女を危険に晒してしまった。男として、彼女を守れなかった。「友作から聞いたわ。あなたが去ったとき、重傷で昏睡していたって」弥生の声

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第1010話

    危害を加えていないならいい。エレベーターの外に澪音がいたのだから、彼女が中にいた友作を助けることもできるはず。大丈夫だろう。ただ、弘次に責められはしないか、それだけが気がかりだった。「心配するな。友作は以前、お前を救った。僕はそんな恩知らずじゃない」その言葉に、弥生は小さく感嘆した。「......やっぱり、彼は私を助けてくれたことがあるんだ」どうりで彼を見たときに、どこか特別な感覚を覚えたわけだ。記憶がなくても、身体の反応は正直で、誤魔化せない。彼女の言葉に、瑛介の眉がわずかに寄った。「......そのこと、覚えてないのか?」弥生はハッとした。彼はまだ、自分が記憶を失っていることを知らない。自分が彼を認識したからこそ、気づいていないのだ。話すべきか逡巡していると、瑛介が問うた。「......記憶は大丈夫?頭を怪我したのか?」弥生は隠さず、静かに頷いた。「ええ」やはり本人の口から告げられると、瑛介の胸は裂けるように痛んだ。「......全部、失ったのか?」次の瞬間には顔色を変えていた。「違う......全部じゃないだろう。だって、僕のことは分かったんだろう?」「あなたの写真を携帯で検索したの」弥生は淡々と答えた。「あとは、友作が教えてくれたことを覚えていただけ」その答えに、瑛介は言葉を失った。「......何だと?」目の前の弥生が自分を忘れていた。ただ一枚の不鮮明な写真と、友作の説明だけで認識していたと知り、衝撃に言葉をなくした。「あなたの写真はほとんど出てこなかったわ。見つけたのは、遠くから撮られた一枚だけ。顔立ちも判別できなかった」瑛介の胸は息が詰まるように痛んだ。自分は彼女が記憶を失っていたことを知らずに救い出した。そのときの彼女はただ一枚の写真を頼りに、自分を信じていたのか。奥歯を噛み締め、彼は吐き捨てるように言った。「顔も分からないような写真で、よく僕についてきたな。悪意を持つ人間だったらどうするつもりだった?」意外な言葉に、弥生はきょとんとした。「......私はついて行ったわけじゃない。あなたが抱えて行ったのよ」喉に詰まるものを感じ、瑛介は黙り込んだ。ようやく搾り出した言葉は、苦いものだった。「じゃあ......誰に抱え

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第1009話

    彼女はどうして気づいたのだろう?おそらく車中ですでに察していたのだろう。途中まで尾行して、やがて姿を消した。弥生が保護されたときに乗せられたのは、尾行で使われた車だった。前後の経緯を考えれば、仕掛けたのは彼らだと彼女は理解できた。「エレベーターの中で電話をかけていた男も、あなたの仲間?」弥生が問いかけると、瑛介は彼女の唇の端を指で拭いながら頷いた。「ああ、うちの人間だ」やはり。弥生があの時違和感を覚えたのも当然だ。大きなホテルなのに、待っている人がほとんどいなかった。不自然だと思った矢先に、あの男があまりにも偶然に現れた。そして、ちょうど二階に差しかかったところで故障が起き、瑛介が現れた。全てが仕組まれたのだ。水を飲むのをやめ、冷静に状況を整理して話す弥生に、瑛介は内心満足していた。彼女が目を覚ます前、医師はこう言った。「外傷はありません。だが頭に影響があるかどうかは、目覚めて会話が成り立つかどうかで判断できます」幸い、彼が取り戻した弥生には、栄養失調以外の異常はなかった。だが瑛介の口元の笑みは長く続かなかった。弥生が辺りを見回し、ふと問いかけた。「......ここはどこ?」その一言に、瑛介の動きが止まった。「......何だって?」声色が変わったのを、弥生も感じ取った。自分の言葉に何か問題があったのかと眉を寄せ、もう一度周囲を見渡した。「聞きたいのは、ここがどこかってことよ?」二度目の確認に、瑛介の笑みは完全に消えた。ここは、彼女が子どもたちと暮らしていた場所なのだ。本来なら、目覚めた彼女がすぐに子どもたちと会えるようにと考えたのだ。だが母親は二人を連れて田舎の祖母のもとへ行ってしまっていた。だから、まずは彼女をここで休ませようと思った。それなのに、彼女はこの家を覚えていないのか?瑛介の呼吸がわずかに乱れたが、顔には出さず、試すように口を開いた。「......自分の家を忘れたのか?」弥生の表情に大きな変化はなく、ただ静かに頷いた。「......そう」続いて、彼女は何かを思い出したように顔を上げ、急いだ声で言った。「そうだ、私と一緒に出てきたあの女の子と男は?どうなったの?」澪音はただのアルバイトの子だ。友作もずっと

  • あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した    第1008話

    「うん、大丈夫」「でも......」「心配するな、自分で何とかするから」自分の体を危険にさらすわけにはいかない。彼女を救いたいのなら、まず自分が無事でいなければ。そうでなければ彼女を守れない。弥生は最初、瑛介がどう処置するつもりなのか分からなかった。だが空港に着いてから、そこに医師が待機しているのを見て悟った。瑛介は事前に手配していたのだ。到着するや否や、すぐに治療を受け始めた。その光景を目にして、弥生はようやく胸を撫で下ろした。緊張の糸が切れると同時に、全身から力が抜けた。長い一夜を過ごした疲労が一気に押し寄せ、彼女は瑛介が治療を受けているのを見届けると、視界が暗転し、そのまま意識を手放した。「彼女の容体は?いつ目を覚ます?」「栄養不良と心労のせいだと思います」ピッ......ピッ......耳に様々な音が入り込み、次いで手に鋭い痛みを覚えた。「他に問題はありません。体に外傷もないですし、目を覚ましたら養生させれば大丈夫です」声は遠ざかったり近づいたり、断片的に響いた。やがて完全に聞こえなくなり、長い暗闇に沈んでいった。どれほど時間が経ったのか分からない。意識が戻ったとき、窓からは日差しが差し込んでいた。長く眠っていたせいで、頭も体も鉛のように重い。ベッドの傍らには、突っ伏して眠る人影があった。瑛介だ。彼は弥生の枕元で眠り込んでいた。わずかに身じろぎすると、その気配で彼は目を覚ました。「どこか痛むか?」瑛介はすぐさま身を起こし、顔を覗き込んだ。弥生は瞬きをして、かすかに首を振った。「大丈夫。特に痛いところもないわ」近くで見る彼の目は赤く充血し、疲労の色が濃い。鼻先が触れそうなほど距離は近い。「本当に?」まだ疑わしげに彼は身を引かない。その距離に弥生の頬は熱を帯び、息苦しさを覚えた。身を引こうとした瞬間、彼の唇が重なった。冷たい唇が、ただ触れるだけで静かに留まった。その瞳には深い想いが滲んでいた。長い沈黙に弥生は耐えきれず、顔をそらした。瑛介は一瞬驚いたように目を瞬き、唇を噛んでから少しだけ距離を取った。「喉は渇いてないか?」声は少しかすれていた。弥生は自分の感覚を確かめ、確かに口が乾いていると気づいた。「......え

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status